黒い砂漠のファウスト 序曲 第二場
Prologue
Scene Ⅱ : The Witches' Kitchen
(One who never thought, to him it’s brought.)
「――しかしどうして魔女の手を借りるのだ。その薬は君には作れないのか」
「作れますよ。作れますが時間の無駄ですね。そんな暇があれば橋を千くらいかけてお目にかけます。腕や術ばかりじゃなくて、ひどく辛抱が要るんですから」
「!」
「これはこれは・・・お久しゅうございます。御用の趣はなんでしょう?」
「例の薬を一杯貰いにきた。一番古いやつだ――効き目は強いほうがいい。大切な友達なのだ」
「こちらを差し上げてみましょうか」
「例の呪文を唱えてからたっぷり一杯差し上げてくれ」
会得すべし、一を十とせよ。
二は去らしむべし。
ただちに三を作れ。
しからば汝、富むべし。
四は手放せ、
五と六とより、七と八を作れ、
これ魔女の勧めなり。
それにて成就疑いなし。
九は一にして、
十は無、
これぞ魔女の九々。(*1)
「この汚らしい煎じ薬を飲んで若返るなら誰も苦労はしない。過去、偉人や哲人が若返りの霊薬を見つけたことがあったか。もっとまともなやり方はないのか」
「先生、また理屈ですか。自然に若返りたいのなら有機野菜でも食べていればよいでしょう。八十過ぎまで若々しくいられますよ」
気高き力は、
学問の前にも、全世界にも
隠され鎖されたり。
思惟せぬ者にこそ、
そは与えられる。
労せずしてかちうるなり。(*2)
「・・・・・・何を下らぬことを述べ立てているのだ。これ以上は我慢がならない」
「よし、もういいでしょう。さあ、先生。ぐっと飲み干してください」
「悪魔と友達付き合いをしていてこれくらい怖いこともないでしょう。さあ」
「ぐっ・・・・・・!」
「出かけますよ。もうすぐ薬の効果が現れるはずです」
「世界はあなたが思っているよりもずっと広い・・・・・・私がご案内します」
黒い砂漠のファウスト 序曲 第一場
Prologue
Scene Ⅰ : The Study
(Stay, thou art so beautiful.)
なんと、己はまだこの牢獄の中に屈まっているのか。
呪わしい陰気な、この壁穴の中に。
やさしい陽の光さえ絵ガラスの窓に遮られて、濁るではないか。
たださえ狭いこの部屋を書物がさらに狭くし、
その書物も紙魚に喰われ、ほこりに覆われて、
高い丸天井近くまで積み上げられたその山に、
すすけた紙の付箋がはさんである。
あたり一面、がらす壜や缶が置いてあって、
器械類が場所をふさいで、その上さらに、
家伝来の家具までが置いてあるとは――
これがお前の世界だが、これでも世界といえようか。
ファウスト 第一部 ゲーテ(高橋義孝訳)「夜」
「これまで、哲学も、法律学も、医学も、無駄と知りつつ神学まで、あらゆる学問を究めつくしたが、昔と較べて少しも利口になってはおらぬ」
「霊の力や啓示によっていくらか秘密が知れはすまいかと思い、魔法の道にも入ってみた。そうすればもう無用な言葉を漁る必要もないと思ったのだ――」
「だが、毎朝の目覚めの疎ましさはどうだ」
「ただの一つの願いも叶えてくれようとはせず、創造の意欲が湧いたとて、くだらぬ雑事でたちまちしぼみ萎える。そういう一日をまた迎えるのだと思うと、俺は苦い涙をこぼして泣きたくなる」
「望ましいのは死だ」
「生は、疎ましい」
「そのふさぎの虫を追い払って差し上げますよ、先生」
「そうやってあなたの命を食い荒らす憂悶の相手をするのはおやめなさい。たとえどんなに下らない奴らとでも、とにかく人間とつき合ってみれば、あなたも自分がひとりの人間だということがわかるはずです」
「いつからそこにいた。お前は・・・何者だ」
「私は否定する霊です。あなた方が罪だの破壊だの、要するに悪と呼んでおられるものは、みな私の領分の内のことです」
「近頃の悪魔は福祉活動に熱心と見えるな。こんな老人に何の用だ」
「あなたに思う存分、人生というものを謳歌していただきたいのです。もしあなたが私と組んで世の中を歩いてみようとお考えなら、あなたの家来になって差し上げます。なかなかお役に立つと思いますよ」
「一体どういう風の吹き回しだ。悪魔のただほど高いものはないと聞く。何が狙いなのだ、はっきりと条件を言うがいい」
「この世であなたにお仕えして、何事も仰せのままに働きましょう。その代わり――」
「あの世でお会いしたら今度はあなたが私の家来になる、というのはいかがですか? あなたがこの世にある限りは私の術で楽しませてあげます」
「そんなことは出来やしまい。出来てなるものか。気高い努力を続ける人間の精神が悪魔風情に分かった試しがあるか」
「そうはおっしゃいますが先生、ゆっくりとうまいものでも食べてのんびり寝そべっていたいと思うときが、いずれやってきますよ」
「もし、俺がそんなことを思うようだったら、俺が前に進むことをやめたら、その時はお終いだ。もしお前が俺に取り入って、もう満足だと思わせることが出来たなら、その時は俺の負けだ――賭けてもいい」
「本気ですね、私は忘れませんよ」
俺がある刹那に向かって「とまれ、お前はあまりにも美しい」といったら、俺はお前に存分に料理されていい。俺は喜んで滅んでいく――